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ハイパーリンくん

学生演劇でハイパーリンくんを観劇。

 

ままごとの戯曲では「あゆみ」に続いて二作品目。

ラップを中心とした掛け合いから、人類史や科学史といった物語を超える「テーマ」の表現を目指す作品であるが、女性をテーマにした「あゆみ」同様の系譜である。

 

シェイクスピア然り演劇は大河的な物語や個人の個性をモチーフとする芸術であったが、柴の戯曲はセリフやキャラクターを排すことで従来の演劇では表現しえなかったよりスケールの大きいテーマを表現している。

 

一方で役者の没個性化や表現するテーマの画一化はこの戯曲のリスク、デメリットとして気になるところ。

マチュア劇団でこの戯曲をやるのであれば、役者個人個人は暴れ馬のように個性をもっ表現するべきであるし、そうしなければ演出家はネコでもできるような簡単な芝居になってしまう。残念ながら今回観劇した劇団ではモチーフの強大さに収斂され、役者ひとりひとりの個性が霧消してしまっていた。昨今高校演劇でも人気の柴作品だからこそ役者は台本に身を任せることなく演じ、まとまりのない芝居になったほうが、より柴の思惑通りの感想を観客に持たせることができるだろう。

モチーフの強大さに屈することは、柴がもつモチーフへのイメージに芝居が収斂されることをも意味する。役者が受動的に演じてしまうと色んな辞書で同じ言葉の説明を読み聞かされているような、そんな気分になってしまう。役者は自身のもつモチーフへのイメージを表現するとともに、観客のイメージをも予想し、表現し、そして時に裏切ることで、多様な言葉のイメージを表現できるのではないだろうか。

 

今作はラップやリズムを重視して、勢いでゴリゴリ進める必要が高い台本になっているため、技術のない役者はほかの役者たちにリズムを強制されてセリフを読んでしまいがちである。演出家は技術に劣る役者へのフォローの必要性について気を遣うべきかもしれない。

学生演劇『あゆみ』

近所で大学生の演劇を観る機会があったので。

 

柴幸男の作品を初めてみたため、ままごとの演出との差異や学生たちのオリジナリティは知る由もないが、何人もの女優が演じることで女性の一生という『想像界』に類するイメージの表現を目標としている作品なのかな、という印象を持った。

生まれ、歩いて、恋をして、結婚をして、別れて、生きて、老いるというあみちゃんの人生には劇的な何かがあったわけではない。「あゆみ」は終始小さな物語をテーマにしているのに、観客を飽きさせない。その理由は、やはりたくさんの役者が一つの役を演じるという表現方法にあると思う。小さくてありきたりなストーリーを演じるのも、複数の役者がひとつの役を演じるのも、従来の芝居からすれば逆転現象を起こしている。その真新しさに導入部から観客は惹きつけられるが、次第に目の慣れた観客は役者たちが演じる一人の女性を見ながら、運命論的な不自由さや、自分に重ねられるエピソードについて共感を見出していくのである。

あみちゃんの一生の内から観客ひとりひとりが「そうだったそうだった」或いは「そうではなかったがそういう過去/未来もあった/あるかもしれない」と思うシーンをピックアップすることで、舞台終盤のあみちゃんの「やり直し」を印象的なシーンに仕上げるのだ。観客たちは奇特な序盤に慣れ、共感を強制された中盤を経てあみちゃんとの一体を感じ、終盤自らが経験したことのない「やり直し」を目の当りにして「観客」として客席に戻ってくるのである。そこにはSFも殺陣も伏線もない、空虚で乾いた現実があるばかりである。

しかし観劇を終えた観客は立ち上がり、人生とは歩みの積み重ねなのだというメッセージにただただ共鳴しながら帰っていくのだ。

 

芝居の目的は観客にメッセ―ジを伝えることだと私は考えている。「人生」という想像界のワードを明瞭かつ観客が確実にメッセージをくみ取るような演出で作った「あゆみ」という台本は現代的なテーマ、斬新な演出でありながらも、嫌みやくさみがなく、古い世代にも受けるエンターテイメントとしてあるのではないだろうか。

M&Oplaysプロデュース『皆、シンデレラがやりたい。』@本多劇場 感想

M&Oplaysプロデュース『皆、シンデレラがやりたい。』

作・演出 根本宗子 出演:高田聖子、猫背 椿、新谷真弓新垣里沙、小沢道成、根本宗子

 

根本宗子の演劇が面白いと知人に紹介され、初めての観劇。

前作「夢と希望の先」は即売り切れしたイメージがありかなり準備を来してチケットを購入。

 

・男性アイドルを追っかける3人のおばちゃん

・その男性アイドルと交際する若い女アイドル

・女アイドルの元カレである若いマネージャー

・男性アイドルと肉体関係を持つ風俗嬢

以上の登場人物が会話で進める一場もののコメディ作品である。

 

この作品のキモは「不安は人の価値観の相違によって生まれる(なので救いがない)」という点である。

 

おばちゃんたちはアイドルの追っかけという立場上、社会的関係を持てない不安を持ちながらも、好意を「追っかけ仲間」に変換することで安心を得ている。後半、「好意」を投資額という「価値」へと読み換えられてしまうことで、彼女たちの間で生じた経済格差というギャップが生じ「追っかけ仲間」という共同体は解体され、不安緩和戦略が機能しなくなってしまう。

女アイドルは交際関係、肉体関係まで有しながらも、「堕ろせ」という男アイドルの発言と風俗嬢の存在によって安心を失い、おばちゃん達と同じレベルの議論に身を落とし、やがて沈黙し、最終的には風俗嬢を排除することで安心を得ようとする。

 

おばちゃんたちは追っかけ行為やSNS、プレゼント、シャンパンタワーなど思い思いの方法でアイドルを愛し、追っかけ仲間との集まりでそれらの果実を報告しあい、安心を得ている。現代では人を好きになるのだってリスクがあり、不安なのだ。追っかけをしていればパート先に陰口を言われるし、年齢だってある。追っかけ仲間も影ではどう思ってるかわからないし、出し抜かれるかもしれない。そんな不安を抱えているのだ。

そんなおばちゃん達のゴールである「交際相手」も登場するなり「不安」は消えないことを突きつける。肉体関係を持っても、子どもを宿してもなお、「好き」は不安定なものだと投げかけるのだ。

この女アイドルのキャラクターがよくできている。序盤で観客はアイコンとして描かれた追っかけのおばちゃんたちを消費するだけの存在だったが、交際、妊娠、堕胎といったリアルの話を持ち込む女アイドルに対し、観客はこの女アイドルの持ち込む話が自分にも及ぶ話だと勘付き、自己を投影するのである。

 

「人を好きになる」この不安をどう緩和すればいいのか。舞台上では高田聖子演じるおばちゃんが「好きの表現は人それぞれ」なんだから「おせっかい」でしょ!と断じる。「好きな気持ちは不安の元」であると共に「不安の共有は価値観の差を浮き彫りにするからNG」というダブルバインドを課すのである。新垣理沙演じる女アイドルは沈黙し、観客はリベラルな荒野を目の当りにする。経済的格差など現代社会で重視される基本的ステータスのギャップに触れることはもはやタブーなのである。

 

終盤、①「芸能人じゃなくたってかわいい子はいるのよね」②純粋な暴力によるライバルの排除③シャンパンタワーという置き換え行為

によって彼女たちは思い思いのジレンマの解消を図る。しかし根本宗子はそれらの防衛機制を否定的に演出していたように感じられる。ではこれらのジレンマから逃れる戦略はあるのか?(おそらく)ないのである。だってこれらの不安はみんなの価値観のギャップで生まれたジレンマなのだから。

(強いて上げるのであれば、高田聖子演じたおばちゃんのように、確固たる価値観を持つことだろうか)

 

「劇団本谷有希子」や村田沙耶香コンビニ人間」のように少し前までは取沙汰されなかった原初的な感情や振る舞いが、リキッドな現代で歪に発現してしまう現象を扱う大衆芸能が増えている様に感じる。

これらの不安は共有することで価値観や出自の相違を浮き彫りにし、結果的にさらなる孤立を深めるという負の連鎖機構を備えている。現代のリキッドな社会を生きる若者には深く共感を呼び、その寓意性だけでも十分に魅力あるコンテンツとして映るだろう。

一方で高齢世代は役者たちが演じた孤立や不安緩和の悩みについて、どのように見えるのか。それが今の私の疑問である。

このブログの内容

①演劇、手品を中心とした舞台芸術

②サッカーを中心としたスポーツ

③その他書籍や映画など

について、私が触れた感想をレビューします。

 

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